2009/3/1(日) 『国際宇宙ステーションとはなにか』 ― 2009年03月01日 00:00
次のスペースシャトル(2月の予定が遅れて、まだ打上げ日が決まっていないが・・・ ⇒ JAXA/プレスリリース)で国際宇宙ステーションに飛び、日本人として最初に長期滞在する若田光一宇宙飛行士の本。
講談社ブルーバックスであるから平易な語り口。中では当事者ならではの訓練の様子などが興味深い。探検隊行動規範訓練の一環として4000m級の山岳地帯を9日間縦走するのに初日から40度近い発熱に見舞われ、それでもチームとして負荷を分担して乗り切ったとか、海底約20mに設置された研究施設での7日間の訓練でコマンダーを勤めた(これは当時NHKの番組になった)とか。
最終章で「技術立国日本として」として、商業衛星打ち上げはマーケットが小さく各国とも国家プロジェクトとして行なっていること、有人飛行にはさらに採算性が期待できず明確な指向を持った国だけが成功している現状を述べた上でこう記している。
「宇宙を利用する営みは、今後ますます拡大していくだろう。人類が永続していく限り、宇宙へ出て行くことと母なる地球の環境を守っていくことのバランスを取りながら、その両方の分野で人類に貢献できる技術力を高めていくことは、今後、技術立国として存続を目指す国の宿命だろう。」(p.248)
今後も<なぜ人は宇宙に行くのか、行かねばならないのか>、実体験に基づいて発信していってもらいたいと思う。
(このくだり、優等生的にきれいにまとめた印象もあるが、目標点の定まらない日本の宇宙開発政策に対する苛立ちも入っている気がする)
話は変わって、上記の山岳訓練に関する締め括りの部分。
「ヒューストンに帰り日常業務に戻ると、山の中での生活は普段の仕事とまったくの別世界、あたかも夢の中で起きた出来事であったかのような錯覚にさえ陥る。」
そうそう、山中で何日か過ごして下山後に街で飯を食っていると、ホントに夢だったような気がするんだよね。
「それは宇宙飛行と本当によく似ている。目の前に広がる息を呑むような光景、外界から隔絶され、生理的・精神的にも過酷な閉鎖環境、チームワークでミッションを達成した後の達成感。登山が与えてくれる環境と宇宙飛行には類似点が意外に多い。」(p.196)
そうか、そうだったのか。
2009/3/7(土) JAXA 東京シンポジウム ― 2009年03月07日 13:00
JAXAの東京シンポジウム「宇宙と人間 -未来を拓く人類の活動領域の拡大-」を聴く。神田の学士会館で13:00~18:30。
受付で重いA4封筒を渡される。中身はカラー図版のちりばめられた400ページ以上ある『高等研報告書0804 宇宙問題への人文・社会科学からのアプローチ』。ISBNコードまで振られた立派な本である。チカラ入ってるなぁ。
ちょっとめくってみると「5.2 コミック」という項(p.60)が目に付いた。人文、芸術分野における宇宙関連作品について述べているらしい。
> 最近のものでは太田垣康男の「Moonlight MILE」、岡崎二郎の「宇宙家族ノベヤマ」、
> 小山宙哉「宇宙兄弟」、萩尾望都「11人いる!」、光瀬龍作・石川球太画「宇宙2007」など。
SFマンガの古典を最近というのはどうよ。「11人いる!」は1975年、「宇宙2007年」は1963-64年の作品だぞ。まあ、ギリシャ時代からの作品を相手に研究していれば、戦後作品などは「最近」ということになるか。しかし、「Moonlight MILE」は3巻くらいまででつまらないから読むの止めたんだよな。同じ時期のものなら幸村誠の「プラネテス」の方がずっと良い作品と思う。
閑話休題。
JAXAのHPからシンポジウムのプログラムをコピペ。
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開会挨拶
立川 敬二 (宇宙航空研究開発機構 理事長)
【第1部:「宇宙と人間」-人文社会科学からのアプローチ-】
司会:井口 洋夫 (宇宙航空研究開発機構 顧問)
(1) 科学技術と人文社会科学との融合
- 国際高等研究所とJAXAの取り組み 井口 洋夫 (宇宙航空研究開発機構 顧問)
- プロジェクトの目的 木下 冨雄 (国際高等研究所 フェロー)
(2) 宇宙は人類の価値観をどのように変えるか
- 人間の活動領域の宇宙への拡大―感覚・観測・想像力 中川 久定 (国際高等研究所 副所長)
- 宇宙への進出は人類に何をもたらすか 木下 冨雄 (国際高等研究所 フェロー)
(3) 宇宙のガバナンスをどう構築するか
- 宇宙ガバナンスの現状 青木 節子 (慶応義塾大学 教授)
- 宇宙ガバナンスの未来 鈴木 一人 (北海道大学 准教授)
第1部 質疑応答
休憩 (ISS/きぼうの映像上映他)
【第2部:「宇宙と人間」-新たな芸術表現の創出】
司会:高柳 雄一 (多摩六都科学館 館長)
福嶋 敬恭 (京都市立芸術大学 名誉教授)、米林 雄一 (東京藝術大学 教授)、逢坂 卓郎 (筑波大学 教授)
【第3部:「宇宙と人間」-有人宇宙活動の未来-】
司会: 高柳雄一 (多摩六都科学館 館長)
対談 松本 紘 (京都大学 総長)×土井 隆雄 (宇宙航空研究開発機構 宇宙飛行士)×的川 泰宣 (宇宙航空研究開発機構 技術参与)
第2、第3部 質疑応答
閉会挨拶
井口 洋夫 (宇宙航空研究開発機構 顧問)
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宇宙開発のシンポジウムというと技術的な側面や宇宙飛行についての話題が多いが、今回は人文社会科学からのアプローチ。今後、民間宇宙旅行が一般化すると小規模ながら宇宙空間に雑多な一般人のコミュニティができる、その際の人間活動についての研究だ。最近、ISS(国際宇宙ステーション)で水球に墨流しをするなど芸術分野の実験を実施しているのもその一環なのだった。
第1部で「プロジェクトの目的」で話した木下氏は「こういった研究にはホラが多くなる。検証の不可能性で検証を」と笑いを取っていた。
無重力の宇宙空間に出ると、これまでの規準系の喪失、世界の相対化が起きる。
哲学では、ハイデガーのダーザイン=「そこにあるもの」は「そこ」を規定できずに無効、サルトルの投機も「前に投げる」ことができない。
宗教では、シャーマニズムの脱我、仏教の入定など、悟りに入る身体の形が取れない。
夢は、精神分析的に上=聖、下=俗と捉えるようなことはできず、変容を迫られる。
「意味的存在」であるところの人間にとって「意味世界」への影響は?という、人間存在の根幹に迫る問いかけ。
宇宙のガバナンスは、実際的にコミュニティの規模を500人程度、メンバは一時滞在という前提を設けての議論。当面は場所を提供した国(例えばアメリカモジュール)と当事者の国籍とで統制することになる。本当に宇宙独自の体制を構築するのは、宇宙で生まれ死ぬ世代が現れてからではないか。これは分かりやすい。
第2部は芸術の話題。
ISSに粘土を持ち込み、人形(ヒトガタ)を作る。シャミトフ飛行士が粘土をこねて人形を製作するビデオが上映された。1体は一かたまりの粘土から全体を形作って目を入れるよう注文してあり、人形に目が入って表情が出ると飛行士の方もリラックスして笑顔が出てくる。もう1体は伸ばした粘土を貼り付けたりして自由に作っていたが、結構楽しんでいた様子。こういったプログラムにより、宇宙環境にあって自分を取り戻す時間を与えることができる。
しかしこのシャミトフ飛行士、水球墨流しも担当したが、やはり感性が日本人とは違う。水球に絵の具を入れて模様を描き出すビデオを上映しながら、企画者の逢坂教授「この後、起きて欲しくないことが・・・」。シャミトフ飛行士、どんどん色を追加して煩いくらいになり、最後に水球に棒を突っ込んで掻き回してしまう。当然、絵の具が混ざって灰色に。あーあ。
第3部は対談だが、まず参加者それぞれに一席。
松本氏は「生存圏の拡大」をブチ上げた。いずれ地球には住めなくなるから、宇宙空間、月や火星を開拓しよう。「サステイナビリティは甘い。これからはサバイバビリティだ」。今回のソフトなテーマの中では異質な印象。増えすぎた人類をもはや地球だけで養えないことには同感だし、生存圏の拡大も必要だ。しかし、資源収奪型の文明を拡大していつまで保つかは疑問。いずれ資源枯渇と領域拡張のための技術開発との綱渡りを強いられるのではないか。松本氏もそれを考えていないはずはないが、時間が限られているため説明していないのだろう。先を聴いてみたい。
土井宇宙飛行士は会場に座っている間はスーツ姿だったが、飛行服に着替えて登場。まず、会場に来ていた新人飛行士候補ふたり(⇒ JAXAプレスリリース「宇宙飛行士候補者の決定について」)を紹介。次にスライドを映して、ISSのアメリカモジュールは航空機の延長、ロシアモジュールは潜水艦と印象を語る。スペースシャトルとソユーズも同様。日本は航空機開発は弱いが造船には強い。ならば「日本版有人ロケットを作ろう 航空宇宙技術と海洋技術の応用」(スライドより)と繋げた。国際的な発言力の点からも自前の有人輸送技術を持つことが必要、と。大いに同感。
的川氏は「今年はいろいろある」と、ガリレオの天文観測400年、アポロ月着陸40年、ダーウィン生誕200年(「種の起源」150年)から宇宙教育の話。
質疑応答での最後の質問が、日本でも宇宙飛行士にテストパイロット(由井氏が空自での経験あり)が選ばれた意味について。壇上の土井飛行士が会場を指すので本人に振るのかと思ったら、立川理事長が立ち上がって「テストパイロットであることは関係ありません」。
その前に質問に立った、4月からJAXA勤務という若者が鞄に土井飛行士他のサインをもらい、友人に「動悸が止まらないよ」と興奮して話していた。頑張って日本の宇宙開発を進めてくれたまえ。
シンポジウムについては以上。
学士会館に入る前にくだん書房に寄って『アポロ11号全記録 大いなる一歩』を1500円で購入。古書としての相場は知らないが、1973年に定価3000円は当時としては高価だったろう。著者は11号の3人の飛行士となっているが、実際は彼らの手記や談話、交信記録等をタイム・ライフの編集者がまとめたもの。それにアーサー・C・クラークによるエピローグが付く。用事で参加でなかったtomo@とかサワキャン(ミクシィネーム)氏の分ももらったシンポジウム資料で鞄が一杯になり、本は紙袋に入れて抱えて帰宅。
2009/3/15(日) 『レッドムーン・ショック』とか人工衛星の本 ― 2009年03月15日 00:00
朝日新聞書評で唐沢俊一氏が取り上げた『レッドムーン・ショック』を皮切りに何冊か。
(マシュー・ブレジンスキー、NHK出版)
書店で見かけてすぐに買ったのだが、書評に先を越された。唐沢氏がこの種の本を取り上げるのは珍しいと思ったのだが、ツカミに「アイアン・ジャイアント」(⇒ SF映画データバンク)を持ってくるあたりは氏らしいひねりだ。
本の内容は人工衛星そのものや打上げについてよりも、それを取り巻く政治、軍事情勢や権力争いに重点を置いている。科学者、技術者の他に政治家や軍人が大勢登場するので、冒頭に「主な登場人物」が掲げられているのはありがたい。ともすれば「ライバルによる告発で強制収容所に送られるが生還し、匿名の<設計主任>として偉業を成し遂げた」と偉人伝的な印象にまとまってしまうコロリョフの人物像も明らかになっていて面白かった。
しかし、スプートニク・ショックで尻に火のついたアメリカが実用的なミサイルを揃えたのに対し、初期宇宙開発でリードを奪い世界に共産主義の優秀さを宣伝したソ連のロケット(ミサイル)は大きすぎ、手間が掛かりすぎて兵器として役に立たなかった(p.408)というのは皮肉な話である。
ところで、コロリョフはスプートニク1号を打ち上げたロケットにプリズムのような鏡を取り付けていた(p.244)。スプートニクを見た(と思った)人の大半は、実際にはこのロケットを見ていた可能性が高いという(p.270)。本書の読者の中には夜空を横切る初の人工の星を強く印象に刻んだ人もいるだろうに。NASAの元技術者ホーマー・ヒッカム・ジュニアの半自伝小説の映画化「遠い空の向こうに」(⇒ ウィキペディア)にもそんな場面があった(*1)。まあ、人工衛星として製作されたものでもロケットの燃え滓でも軌道に乗った以上は人工の衛星であることに違いはない(*2)。
もう一つところで、プロローグでV2のロンドン空襲を描いているのだが、秒速1600キロとした箇所がある(p.14)。V2でそれだけの速度を達成していたらその後衛星を上げるのに苦労しない。っていうか、宇宙の果てまですっ飛ぶぞ(*3)。文脈から秒速1600mの誤りと見当はつく(*4)が、本の最初でこういう間違いをしちゃいけないな。
(クルト・マグヌス、サイマル出版会)
1996年発行の本をネット古書店で購入。
フォン・ブラウンらは敗戦時に自発的にアメリカ軍に投降したが、こちらはドイツに残っていたところをソ連軍に拉致されロケット開発に従事させられた学者の手記。
本書も技術面より抑留中の生活などが主な内容。著者は46年10月22日に婚約者ともども自宅からソ連兵に拉致され、最初はモスクワ近郊の保養所に住まわされた。ここから製作所に通ってA4(V2)の復元に携わり、やがてミサイル試射場のカプスティン・ヤールで発射実験にも従事する。<設計主任>コロリョフと仕事をすることもあった。48年5月にモスクワの北西320kmにあるゼーリガー湖(セリゲル湖の表記の方が一般的らしい ⇒ グーグルマップ)のゴロドムリャ島(湖の下半中央、グーグルマップでは「ソルネチニ」の地名が目立つ)の収容所に移され、53年11月の帰国までを過ごすのである。ソ連側は勝手な労働契約書を作成し、従わなければ強制労働させることもできると脅した。指示に従う限りある程度の自由が認められたが、基本的に監視付きでドイツ人仲間がスパイに仕立てられている状況では本当の自由などあるはずもない。計画経済の建前の一方で闇商売がはびこり、数字の辻褄合わせだけでノルマ達成と称するソ連社会の愚劣さも描き出す。その中でよりよい待遇を求めて「信頼評議会」を結成し議員選挙を行うなどはいかにもドイツ人らしい。
戦後ソ連の手に落ちたドイツ人技術者の消息として興味深い。
(A.シュテルンフェルト、岩波新書)
1957年のスプートニク打上げの翌58年に出た本を街の古本屋で買っておいたもの。56年にソ連で出版された原著に訳者他によるスプートニク1、2号の解説を加えている。本文に「アメリカのヴァンガード計画では・・・」という記述が何ヶ所かあるのに対して自国の計画の具体的な記述が見あたらないのは、アメリカのオープンさとソ連の秘密主義を窺わせるようだ。
この本を買った時、手書きの「米ソ人工衛星比較表」(58/5/27打上げのバンガード2号まで)と「ソ連衛星三号」という見出しの朝日新聞切り抜き(発行日は不明だがスプートニク3号打上げは58/5/15)が挟まっていた。さらに表2(表紙の裏側)と表3(裏表紙の裏側)に次の書き込みがある。ステキな本だ。
○1957年10月4日、ソヴェトが人工衛星第一号(スプートニク1号)を打上げに成功した。人類にとって宇宙開発のための貴重な第一歩であった。人工衛星はあくまでも科学的にのみ利用されなければならない。これが全世界の偽らざる希望である。
○人工衛星 勉強のために 58.2.8 K.HARIU
未だ戦争の記憶も新しく、社会主義が世界平和と平等を達成するものとして輝いて見えた時代だろう。向学心に燃えて岩波新書の新刊に手を伸ばす針生青年の姿が目に浮かぶようだ。書き込みで古書としての価値は下がるが、前の持ち主の息づかいが伝わるこんな古本も悪くない。
データとしては古いが、当時ならではの問題意識--例えば「大気圏外の空間の所属はどうなるか」--などが知られて面白い。アメリカはこれ以前にU2偵察機をソ連領空に侵入させていた(60年には撃墜されている)が、衛星軌道から安全に他国を偵察できることになった・・・というストーリーが『レッドムーン・ショック』に語られている。訳者による解説の結びの一文「月への一番乗りも、ソビエトの手で行われる日も近いであろう」にも時代の息吹が感じられる(*5)。
(W.G.バーチェット & A.パーディ、岩波新書)
1962年発行。原著は前年にイギリスで出版されたもの。
次に読むつもりだが、目次に「宇宙犬、その学校と訓練」「考える人工頭脳」「火星?生物についての学説と可能性」などと並んでいて楽しそうである。
上に載せた写真はスプートニク打上げ当時の米ソの切手。
左は戦後アメリカに渡ったフォン・ブラウンらが最初に落ち着いた(『レッドムーン・ショック』の描写では「フォン・ブラウンとその仲間を人目につかないよう隠しておく場所」p.132)陸軍基地フォート・ブリスの100周年記念。1948年11月の発行でV2の打上げを描いている。
右2枚はソ連が1957年11月5日と12月28日に発行したスプートニク記念。バイコヌールから打ち上げて軌道傾斜角65°だから図案も正確か。10月4日の打上げから発行までに1ヶ月かかっているのは、ソ連首脳部が当初、人類初の衛星打上げの意義を理解していなかったことの表れだろう。ソ連はこの後、宇宙開発の成果を宣伝する切手を盛んに発行している。
・・・というところで1950年のアメリカ映画「月世界征服」(⇒ SF映画データバンク)を観たら、冒頭のロケット打上げテストはV2の実験映像の流用らしく、また月を目指す目的として他国に先を越されることへの懸念が語られていた。「宇宙空間からの攻撃を防ぐ方法はあり得ない。最初に月をミサイル基地にした国が地球を制します」。その一方、アメリカは宇宙一番乗りは自分たちだと信じ、元ナチのフォン・ブラウンには冷や飯を食わせていた。スプートニク・ショックの大きさは現代人の想像に余りあるものだったことだろう。
*1:この作品をロードショウで観た時、わたしはラストでは滂沱(ぼうだ)の涙でした。今回思い出したのだが、監督のジョー・ジョンストンは「アイアン・ジャイアント」にもキャラクターデザインで参加している。1950年生まれで、スプートニクに特別な思い入れがあるのかもしれない。
*2:ロケットの方が明るく見えたことは『人工衛星』の解説に書かれており、当時は周知のことだったらしい。ロケットと衛星本体の他に「いわゆる帽子」(フェアリング)が軌道に乗り、彗星などと同様に付けられた仮符号はロケットが1957α1、衛星本体がα2だった。日本で観測された光度は、ロケット1~2等級、帽子4~5等級で、衛星本体は6~7等級。明るい点に注目して衛星本体には気づかない場合も多かったろう。
*3:衛星を地球軌道に乗せるために必要な速度(第一宇宙速度)は約7.9km/s。地球軌道を離れる第二宇宙速度は11.2km/s、太陽系を離れる第三宇宙速度は16.7km/s。
*4:Google Book Searchで原文を見たら "a mile a second" だった。1マイル=1609m。
*5:実際、月に最初に到達した人工物体はソ連のルナ(ルーニク)2号で、59年9月12日に打ち上げ、14日に月面に激突した。
2009/3/22(日) バイク始動せず ― 2009年03月22日 16:00
我がXR-BAJA(バハ)、ろくに乗る暇がなく、昨年暮れにバッテリーが上がってしまったので外しておいた。
そろそろ暖かくなって凍傷もほぼ回復したので復活しようと充電して載せてみたら、メーターやライトは点くもののセルモーターを回すだけの力が残っていなかった。仕方なくチャリでバイクショップへ出掛けて新しいバッテリーを購入、9800円ナリ。
新しいのを載せてエンジン始動・・・と思ったら、今度はセルは回るのにエンジンがかからない(泣) もちろんガソリンは入っている・・・いや、置いとくうちに腐ったかも。
さて、どうしよう。
2009/3/29(日) バイク始動せり ― 2009年03月29日 16:00
先週(⇒ 3/22 バイク始動せず)の続き。
セルモーターは回るがエンジンが始動しないXR-BAJA。
ガソリンタンクを覗いても中身はきれいだ。プラグを外してみると外側が錆びているものの接点や点火部に異常はない。
そこまで確かめてから、車に詳しいO倉氏に見てもらった。
エアクリーナエレメントを外して代わりにボール紙で蓋をした状態で始動を試みるとガソリンの匂いがする。これは正常。
外見からは分からない部分でプラグが駄目になったのかもと、バイクショップで新品を購入してくるが結果は変わらず。
セルモーターを回しているだけでバッテリーが乏しくなってきた。
シロウトとしてはこれでお手上げ。バイクショップにお願いすることにして引き取りに来てもらう。
来てくれた若者が始動スイッチを押すと、なに!? 掛かるじゃん。
若者「・・・エンジンストップスイッチ(*)がOFFになってたんですけど」
うひゃ、恥ずかしい。いつからOFFだったのだろう。
先週バッテリーを交換しても始動しなかった時に真っ先に確認しているので、最初からということはあり得ない。今日何度も始動スイッチを押すうちに触ってしまったか。
そうすると始動不良の原因はやはりプラグだった可能性が高いが、今さら古いのに差し替えてまで究明する必要もあるまい。
・・・という訳で、マーフィーの法則「故障した電化製品は修理を呼ぶと動く」のバリエーションを実証したのであった。いや、実証したのは自分の間抜けさかも。
*緊急にエンジンを止める場合に使うスイッチで、普段はRUN位置にしたまま触らない。始動スイッチのすぐ上にある。
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