2008/12/26(金) 香山リカ連続トーク「科学vs.スピリチュアル!?」2008年12月26日 00:00

原宿のマヌエラカフェにて、ゲストは『一粒の柿の種―サイエンスコミュニケーションの広がり』の渡辺政隆氏、『スピリチュアルワールド見聞記』(⇒ 2008/6/7 最近の読書)の植木不等式=K元・T氏。
香山氏は『スピリチュアルにハマる人、ハマらない人』をものしているので、スピリチュアル繋がり(香山-植木)とサイエンスライティング繋がり(渡辺-植木)という3人で2軸の構図だが、実際のトークは香山氏がスピリチュアル擁護派を代弁してそれに科学がどう対応していくかという形になった(そういう構図を作ろうとしたという意味で、香山氏がスピリチュアルを肯定している訳ではない)。

しかし、科学派はどうも歯切れが悪い。これは科学の本質が「健全な懐疑」であることからくる必然なのだが、何事も断言できないのである。確信(必ずしも根拠は要らない)をもって迫ってくるスピリチュアル派には敵わない。渡辺氏が「人に迷惑をかけない限りは構わない」と言うと、むしろ香山氏の方が反スピリチュアルの立場になってしまったり。

香山氏は科学とスピリチュアル(や疑似科学etc)の違いとして「TVやインターネットの仕組みを知らずに使っていても頑張れば理解できるはずなのに対し、スピリチュアルは前世が見えると言われたら受け入れるだけ」と語っていたが、ちょっとズレがあると思う。クラークの法則に言うように「充分に発達した科学技術は魔法と見分けがつかない(Any sufficiently advanced technology is indistinguishable from magic.)」だろう。ここで「科学技術」と言っているのは正しくて、TVやインターネットは科学によって得られた知見の応用で科学そのものではない。科学とは世界の仕組みを明かしていくためのプロトコル、手順、手続きなのである。スピリチュアルと対比すべきはTVやインターネットではなく科学による世界の捉え方だ。そう考えれば、「科学はさっぱり分からないがスピリチュアルは答えを与えてくれる」という勘違いも減るだろう。それでも安直な回答を求める人にとって、何事も断言しない科学はやはり物足りないものであろうが。

広範な知識や世界に溢れる製品の仕組みはもはや個人が一生を費やしたところで理解しきれるものではないが、その背後に人間の知的営為の積み重ねがあることを理解していれば、まずはよしとすべきだろう。その積み重ねに貢献するのが科学者であり、状況を一般大衆に伝えるのがサイエンスライターだ。
目の前の製品や現象の背後にあるものを忘れた時、科学技術と魔法は見かけだけでなく実体も区別のないものとなる。
現状の問題は一般大衆の相当部分が科学技術と魔法の違いに関心を持たなくなっていることなのだが、さてこれはどうしたものだろう。『一粒の柿の種』にあるように小中学生は理科が好きなのだから、その時分から科学リテラシーを植え付けていければよいのだが。その辺はポスドクや民間企業の活用ということでトークの話題にも上っていた。

トーク終了後に質問として出された「歴史修正主義(アウシュビッツはなかったというような論)に反対する最後の拠り所が<良心>という人がいる。科学の最後の拠り所は?」という問題提起が面白かった。渡辺氏は「科学の方法論を守ること」と答えていたが、それではスピリチュアルに対して良くて平行線、無関心は敵方に利するからむしろ劣勢に立たされる現状を変えられないのではないだろうか。と言って<良心>のように曖昧なものをベースにするのは科学の精神に反する。やはり科学リテラシーの涵養が唯一の途か。
Google
wwwを検索 このブログを検索