2005/9/2(金) 遣唐使展&「妖怪大戦争」&アニドウ上映会 ― 2005年09月02日 00:00
まだ夏休み。
夜のアニドウ上映会の前に、朝日新聞の読者プレゼントで招待状をもらった「遣唐使と唐の美術展」を片付けることにする。
東京国立博物館・平成館は思ったより込んでいる。オバサンが多い。
目玉の「井真成(せいしんせい)墓誌」はそれほど面白いものではない。石製の正方形の蓋と身の一組だが、特に装飾もなく、身の方には随分余白がある。「これは真成の生前の地位の低さを反映している」という説明は正直でよろしい。その割に文面は「時の玄宗皇帝はその死を悼んで尚衣奉御という格式高い官職を贈り・・・」と大変なものだが、今で言えば名もない公務員が内閣総理大臣名の褒章を受けるようなものか。
もちろん、墓に入るまでの経緯を想像すればロマンもある。井上靖『天平の甍』みたいなドラマもあったかもしれない。しかし実物を前にするならば、生き生きと動きを写し取った加彩、三彩の像の方が面白かった。
「模写・模造と日本美術-うつす・まなぶ・つたえる-」を同時開催。遣唐使展のチケットで入れる。
時間があるので、新宿で「妖怪大戦争」を鑑賞。
先日K田・T氏に貸していただいた同じ三池崇史監督の「牛頭」の壊れ振りが心地よかったので。
本作はジュブナイル映画だがなかなか楽しい。
祭りだ祭りだと全国の妖怪が東京に大集合、大爆発のラストが行っちゃってて爽快。
魔人加藤はやっぱり嶋田久作に演(や)ってもらいたかった気はするが。
いい時間になったのでなかの芸能小劇場へ。
集まったのは唐沢俊一氏、K元・T氏、K田・T氏に自分。
今回の上映会のお題は「初秋の新着<Toon?>10本特集」。なみき会長曰く「新着ということは見ていないということ」で、闇鍋の雰囲気。
実写の巨大クモ映画('55)ダイジェスト版を皮切りに、トウのたったアリス(サイレント)、青や黄色があれこれするのに退色が進んでキャラ(?)が識別不能になりかけてる切紙、確率のお勉強('70)等が続く。制作年代は新しいのにひどく素朴な作りの作品('89)、内容はつまらないが「耳トマト」とか仕事をしらばっくれるのに使えそうと会話。このタイトル、一瞬「ミスター・ビーン」のアニメ版かと思った。
WDの教育映画が2本。ひとつは人体の話。女の子の器械運動に続いて筋肉と骨の図解など出てきたのでアニメータ向けの資料かと思ったが一般的なものだった。もうひとつは衛生観念普及映画で、清潔な家族と不潔な家族を対比。どちらも粗末な小屋に住んでトウモロコシを作っているのだから、ターゲットはメキシコ農民あたりか。きっと村の広場でシーツか何かを張って映すんだ、と唐沢氏。
他にお馴染みのキャラクタものもあるが、せいぜいが水準程度の出来。それが面白く感じられる。今回は何だか教育映画が集まってしまって眠かったし。
最後はアニドウが配給、DVDも出しているイギリス、マーク・ベーカーの「ヴィレッジ」('94)。隔絶された村(というよりアパート)の人間模様。最初の巨大クモよりこの作品に出てくるアリの方が怖い。
上映会の後は例によって飲み。4人で中華に入ったところでもう一人のK田・T氏登場、マイミクのQシリーズ2人(*1)が揃う。後から来た方のK田氏、「ウルトラQのロケ地ツアーをやりましょう」。どこまでもQ繋がりである。
唐沢氏にお願いしてあったうわの空公演「ひよこのパジャマ」のチケットを受領。
生ビールと紹興酒、他愛のない話で楽しく過ごして23時半過ぎにお開き。
自宅までの電車は終わってしまったので途中駅から17km程歩く。仕事場で大地震に遭ったらこの倍以上の距離があるので練習のつもり。3時間以上掛かって4時過ぎに帰宅。山の中でザックを担いで10時間行動することはできるが、平地の舗装路を酒が入った状態で行くのは疲れるし飽きる。シャワーを浴びて寝ようと思ったら空が白んできた。
*1(ミクシィ日記から本ブログへの転載に当たっての注記)
本名を略すとお二方とも「K田・T氏」になってしまうのだが、三池作品DVDを貸していただいたりアニドウ上映会で顔を合わせているのはミクシィネーム「さざんかQ」さん、中華で登場したのは「ぽんさQ」さん。
2005/9/5(月) 唐沢兄弟の本 ― 2005年09月05日 00:00
夏休み終わり。
10日も前の仕事の続きなんて覚えてなかったりして。
まあ何とかリハビリして、帰りに仕事場近くのまんがの森で唐沢なとき『パチモン大王 VOL.1』を買う。税込み2000円と少々高いが、A4の光沢紙にカラー印刷なので納得。この巻はカルタ、ぬりえがメインで、パラパラとめくってみると笑える物件いろいろ。
そのまま足を伸ばしてジュンク堂へ。コミック売場にみずしな孝之サイン入りの『ミズシネマ2』があったが、もう買ってしまったのでパス。ちょっと悔しい。
2005/9/9(金) 音楽と落語のコラボレーション ― 2005年09月09日 18:30
K田・T氏に誘っていただき、創遊シリーズ「音楽と落語のコラボレーション」全3回の第1回「桂平治と西崎進」。K田氏は二代目桂平治(かつらへいじ)師匠と友達の間柄。
退勤後、西新宿の芸能花伝舎へ向かう。旧新宿区立淀橋第三小学校で、一部の設備が残してある。トイレとか身長計体重計とか懐かしい。その教室のひとつに高座を設え(朝礼のお立ち台みたいに階段で上がる)、椅子を並べた会場。
平治師匠は病み上がり。8月に入院して脳下垂体の腫瘍の手術を受けている。何でも顔の皮を口のところで切ってベロンとめくり上げ、鼻をどかして腫瘍を切除するのだとか。めくり上げたのを針でここに止めたんです、と頭の左右のハゲを見せる。脳下垂体が悪いとセックスが衰える、下が衰退しちゃう訳です、だから下すいたい、なんてギャグから小噺に入る。
女からの手紙を見せびらかす男、その手紙が仮名ばかりの上に誤字脱字で頓珍漢な読みに。K田氏によると「女給の文」というネタ。
音楽の方は、作曲西崎進(にしざきすすむ)、フルート、クラリネット、サキソフォン副田信孝(そえだのぶたか)、キーボード田代修二(たしろしゅうじ)、チェロたのうち惠美(えみ)、ヴァイオリン萩原淑子(はぎわらよしこ)。
最初の1曲は不詳、オリジナルか?
2曲目は「もののけ姫」を各楽器を繋いで演奏。宮崎駿のベネチア国際映画祭栄誉金獅子賞記念?
ホールのような音響効果はないけれど生の演奏はいいものだ。
次はいよいよコラボレーション「七度狐」。出囃子ならぬカルテットの生演奏(ちゃんと昔話の導入ふうになる)で平治師匠登場。
師匠はすっかり元気で、大きな声で化かされる二人組を熱演。もっとも、K田氏によると噺家が高座に上がると元気に見えるものだということだが。
噺の要所要所に音楽が付く。高座の演技が見ものなので、カルテットの方を見ている余裕がないのは少しもったいない。タイミングを合わせて情景や感情を表現する贅沢なBGM。ただ、生演奏だけに音は大きめ。師匠の声がやや聞き取りにくい場面もあった。
噺は七度化かされるうちの最初の二度まで。
15分の休憩を挟んで「死神」。
原典を崩したのは死神退散の呪文「あじゃらかもくれんバイアグラ」くらいか、古典に忠実な喋り。死神の演技、命の灯火(ともしび)を移そうとする場面などが聴きどころ。そこに音楽や照明の演出が加わって堪能。休憩中に調整したのか、演奏が大きすぎると思うことはそれほどなかった。
K田氏が出演者の写真を撮ったり平治師匠と少し話したりした後、開いているとんかつ屋を見つけて二人で食事。
2005/9/15(木) 「銀河ヒッチハイクガイド」 ― 2005年09月15日 00:00
一日の仕事の後、VIRGIN TOHO CINEMAS六本木ヒルズへ。23区内はここでしかやっていない。公式サイトによると全国9館での公開。ほとんど単館ロードショウ扱いだ。
大爆笑とはいかないが結構笑える。いや、日本人の映画鑑賞態度からすれば、場内から笑いの起こるH2G2(HitchHiker's Guide to the Galaxy)は大ウケと言っていいかもしれない。ひとつ挙げれば、再生中の地球、エアーズロックを赤く塗っているところは「宇宙船レッド・ドワーフ号」のオープニングを思い出して爆笑。
そもそも自分はモンティ・パイソンやレッド・ドワーフといった大英帝国ギャグが好きだ。H2G2はアメリカでの制作になって旧宗主国の薫りは大分飛んだようだが、それでも英国流のひねたユーモアは健在。
原作は買ったけどまだ読んでいない。たぶん小説はもっと面白いのだろうけど、自分的にはこの映画も大いにOK。
本作は原作の続編『宇宙の果てのレストラン』に繋げられる終わり方になっているが、さて続くだろうか。Movie Walkerでの評価は5点満点が70%と高いが、マニア受けかもね。
オマケ。映画のプログラムより仕入れたネタ。
「生命 宇宙 そのすべて」に対する答えを知りたくば、googleにて「answer to life the universe and everything」を検索せよ。
2005/9/19(月) 『夕凪の街 桜の国』 ― 2005年09月19日 00:00
今月2回の三連休、どちらかで山に行く予定が後の方に決まったので、この3日間はぶらぶら。
で、3ヶ月も前に古本で買っておいた『夕凪の街 桜の国』(こうの史代、双葉社)を手に取った。帯にあるごとく「朝日新聞紙上で2週にわたって絶賛」された代物で、そうするとひねくれ者の自分は却って読む気をなくすのだが、ほぼ半額ならまあいいかと買ったもの。その後も他の本に紛れて積んであったのだが・・・
参った。絶賛にも素直に脱帽。「夕凪の街」はたった30ページで被爆後10年の広島の日常生活、生き残って成人した娘の罪悪感とそこからの解放、そして残酷な結末までを描き出す。
主人公のモノローグ。
わかっているのは「死ねばいい」と誰かに思われたということ/思われたのに生き延びているということ/そしていちばん怖いのはあれ以来本当にそう思われても仕方のない人間に自分がなってしまったことに/自分で時々気付いてしまうことだ
嬉しい?/十年経ったけど原爆を落とした人はわたしを見て「やった!またひとり殺せた」とちゃんと思うてくれとる?/ひどいなあ/てっきりわたしは死なずにすんだ人かと思ったのに
理不尽な死。恨みを言う相手も見えない。それを裏返してそんなところに自らの死を意味づけるしかないのか。
あとがきに「このオチのない物語は、三五頁で貴方の心に湧いたものによって、はじめて完結するものです」とある。35ページは作品の後の真っ白なページ。何度か読み返すと、あるいは知識を深めると、そこに見えるものも変わってくるのではないだろうか。
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