2015/3/22(日) 九鬼山~倉岳山2015年03月22日 00:00

今シーズンはどうもスケジュールが合わなかったりで雪山に行けてない。この週末も不発だったので、せめて手軽なところでもと探して、中央線沿線で「秀麗富嶽12景」を繋ぐ長めのハイキングに出掛けた。

大月駅で降り、Ingressしながら厄王権現石碑へ。天気は上々、暖かい。
身支度をして、8時半に歩き始め。四合目、八合目の鳥居を潜って厄王権現へ。大岩基部に設けられたコンクリの建屋の中に石の祠。そこを過ぎると昭文社山と高原地図に「岩場注意」と危険マークのついた箇所だが、足元に気を配っていれば問題ない。暗くなってからだと危なそうだが。
今日のルートからはちょっとだけ外れる御前山(780m)も稼いでおく。富士山が眺められたが、春霞みでぼんやりしている。
御前山からの富士山
馬立山(797)~札金峠を通過した紺場休場は平らかで西側の眺望が開けていかにも休憩によい。九鬼山(970.0)には11時。2パーティが休憩していたが、そこに田野倉や禾生方面から到着する人たちもいて賑やかだ。
腰を上げ、田野倉、次に禾生への道を分ける。鈴ヶ音峠への道は俄然荒れて指導標もなく(地元山岳会の簡易なものは要所にある)、縦走する者の少ないのが如実に判る。ここもまた明るければ踏み跡もテープも容易に見つかって問題ないが、暗くなると道から外れてしまうかもしれない。
アップダウンを繰り返して高指(860)に到着。山頂標識があるのは反対方向からのハイキングコース設定ということか。そのまま進んで鈴ヶ音峠で道路(林道?)に出る。ここには「恩賜林の由来」が掲げられている。登山道に不思議な文字を刻んだ石柱が多くあるのだが、おそらく「恩」の略字なのだろう。
恩賜林の標石
そのまま道路を少し進み、docomo中継局への道に分岐。途中から樹林に入り、大桑山(980)へ。ここと高畑山の中間、地図に「岩稜」とあるのは岩の細道だ。踏み外したら下の樹林を転げ落ちることになるだろう。
岩稜
高畑山(981.9)も秀麗富嶽12景の一なのだが、富士山方向には雲がかかってしまった。目を凝らすと、富士山の雪と地肌の境目が薄く覗いている。
穴路峠を越え、倉岳山(990.1)には14:20。やはり富士山は見えないが、午後から曇り、場合により雨という予報で、実際昼過ぎに一時冷たい風が吹いたのが持ち直したのだから、よしとする。
立野峠から梁川駅に向かって下りていく。途中の水場は岩を固めたコンクリートから塩ビパイプが出ているが、水は岩の表面を流れ落ちる。水量が豊富な季節にはパイプから出るのか? これだけの設備を造っておきながら傍らの説明には「飲料ではありません」。もう飲んじまったよ。
沢沿いに下り、車道に出て歩いていくと、石仏や道祖神、馬頭尊などが道脇に固まって祀られていた。道路を付ける際にまとめられたのだろう。
石仏など
梁川駅15時半で行動終了。ほぼ気分のよい樹林歩きルートだった。

山歩きは無事終了したが、中央線は人身事故でダイヤ乱れ。梁川駅で列車到着を待たされ、高尾駅のホーム満杯で駅手前でまた待たされた。

■今回のルート
九鬼山~倉岳山ルート

2015/3/29(日) 古新聞断片2015年03月29日 00:00

母が祖父の着物をばらしたところ、厚紙に新聞紙を添えて形をとった部分が出てきた。
古新聞

古新聞
古新聞

細かい活字、しかも画数の多い旧字にルビの振ってあるのがにじみもなく読めるのに感動。記事の中に「大正10~12年の平均賃金を云々」とあるから大正末か、あるいは「直木三/南国」と読めるのが直木三十五の「南国太平記」だとすれば昭和6年以降か。その頃の日本には上質の紙に精度の高い活字を用いる印刷技術と文化があった。エロとナンセンスもありの演芸も。それが昭和12年には「贅沢は敵だ」の国民精神総動員となる。怖いなぁ。

2015/3/31(火) 「イミテーション・ゲーム」2015年03月31日 00:00


すごくよかった。
事実とドラマをうまくミックスして、二次大戦の裏面史の中で人と人との繋がり、また少数者を排除してしまう社会の有様を描く。ベネディクト・カンバーバッチがまた上手い。ここ数年で収穫の一本。
サイモン・シンの『暗号解読』を読み返さないとな。
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