2010/9/5(日) エドガー・ミッチェル 『月面上の思索』 ― 2010年09月05日 00:00
アポロで月へ行った後、別の世界へ行っちゃったうちの一人であるミッチェルの自伝。どんな具合に行っちゃったのかに興味があって読んでみた。
ミッチェルは立花隆『宇宙からの帰還』にも登場している。その当時からの考えを深めた結果がこの『月面上の思索』ということらしい。
アポロ14号にESPカードを持ち込んで地上との間で秘密裏にテレパシー実験をしたくらいだから、もともと超能力に興味は持っていた(帰還後にこの実験が明るみに出たとき、船長のシェパードには冷笑されたが、フォン・ブラウンは好意的だったという。p.118-121)。それが地球への帰還途中、「私よりずっと大きい何かに、窓外の惑星よりずっと大きい何かに、どうしたわけか私は同調してしまったのだ。理解を超えるほど巨大な何かであった」(p.113)という経験をする。NASAを退職後、ノエティック・サイエンセス研究所を設立、超能力、ひいては意識の本質を研究する。
んでまあ、「現在わかっていること、進行中の一定の調査、確かな情報に基づいた近未来の出来事に関する予測などを前提として、次に挙げる日常的経験は量子ホログラムおよび関連する量子現象によって説明できると私は提案する」として
(1)人、出来事、物体についての非局在的直感的な感覚
(2)超感覚的な知覚による情報(直感の一形態)
(3)前世退行セラピー、そして一般に信じられている生まれ変わり
(4)最後に、われわれ人間の意識的経験の基本的な本性
を掲げている。(p.334-335)
どうやら、ゼロ点場(*1)と量子の絡み合いを基にし、「物質意識は不可分な二個一組の表裏一体であり、二つの両立しない領域を抱えた二元論ではない」(p.302)というモデルを導入してこれらを説明しているらしいのだが、量子論と意識を結びつける議論は、わたしには理解できませんでした(白旗~)。
徒(いたずら)に神秘主義に走らず、極力科学の枠組みを使用して意識と宇宙の結びつきを考察していると読める。しかし、ユリ・ゲラーやサイババをそのまま信じ込み、ホイルらの定常宇宙論を(観測に基づく宇宙論の進歩を知らずに?)「十中八九正しい」と考え、特に脈絡もなくゼカリア・シッチンの古代宇宙飛行士説が出てきたりするところを見ると、やはり、まず自分の考えありきで、それに都合のよい事実や仮説や憶測を集めて自説を証明したつもり、というトンデモの黄金パターンに嵌まり込んでいると考えざるを得ない。アポロ計画に選抜されるほどの人物ならば人類の中でもベスト・オブ・ベストだろうと思うのだが、哀しいことである。いや最上の人間でも、騙されやすく信じ込みやすい自分たちとそう変わらないと思って安心すべきだろうか。
意識は生理学上の過程の副産物にすぎず、二次的なものとする付帯現象説に対して「意思は実在しており、科学の決定論が断定するような大妄想ではないことを私自身にも証明するために、付帯現象説として知られるこの学説が誤りであることをはっきりさせなければならない」と書いている(p.132)が、最近の「意識が生じるのは脳が行動を起こす指令を発した後」という知見についてはどう考えているのだろう。
量子論の多世界解釈について「真実だとすれば、われわれに適さない宇宙に人間が存在するはずはない。人は潜在意識のレベルでも、信じること、または信じたいと望んでいることをつねに選ぶであろうことにその理由がある。「多世界」宇宙では、われわれのほとんどがネアンデルタール人的、原始的な天国にいることを見出すであろう」(p.226)というのも違うだろう。観測ごとに世界が分岐していくという考え方(*2)なのだから、ネアンデルタールの天国にもサラリーマンの地獄にも人間はいるのである。
天国を選択できるのなら、それは「亜夢界」だ(山本弘「シュレディンガーのチョコパフェ」他)。
「表裏一体モデルは、幾人もの人が古代の同一人物の生まれ変わりだと主張する理由をもっと明快に説明する。このモデルは、クレオパトラ、ジャンヌ・ダルク、その他の名高い人物など、歴史的に有名な人々がなぜ現代の幾人かに<生まれ変わって>いるらしいかをよりよく解説する-つまり、現代人は非局在的源からの記憶を回復しているのだ」(p.342-343)
いや、それは単なる妄想だと思うぞ。
*1:これは科学の用語としては一般的でない。量子場のゼロ点揺らぎを指すらしい。
ミッチェルは「十九世紀後期に、マイケルソン-モーリーの光を測定する実験により、誤って除外されたエーテルの生まれ変わりである」と書いている。(p.326)
⇒ 佐々木合気道研究所/「ゼロポイントフィールド」と合気道(スピリチュアル寄りの説明)
*2:「観測が起きたらイベントが分岐し、2つの世界が現れおのおのの道を進む」というのも本来のアイディアからずれているのだが、ミッチェルはこの意味で「多世界解釈」を使っている。(参考:ウィキペディア/多世界解釈)
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