2022/5/20(金)~5/22(日) 熊野三山など2022年05月20日 00:00

大峯奥駈(https://marukoba.asablo.jp/blog/2022/05/16/9500462)の後、あらためて熊野三山を巡る。

■5/20(金)
蘇生の湯で汗を流した後、食事をしようにも開いている店がなく、コンビニで買った缶ビールを本宮大社前バスターミナルのベンチで飲む。
新宮へのバス車中でT中氏がグランホテルを予約。新宮の宅急便センター宛に送ってあった自分の街用の着替えなど受け取ってから、ホテルのツインルームに投宿した。
あらためて食事と飲みに出て、焼肉と居酒屋をハシゴ。地酒の「太平洋」(https://ozakisyuzou.jp/)が旨い。

■5/21(土)
T中氏は帰途に就き、自分はホテルをチェックアウトして宅急便センターからザックを自宅宛に発送。
身軽になったところで雨模様の中、徐福公園に立ち寄ってから新宮駅へ(公園からすぐなのだが、どこで間違えたのか大回りした)。那智駅まで電車、そこからバスで大門坂へ。
時折傘を広げる程度の降りに、大門坂の石段はしっとりした風情を増している。
大門坂
那智山観光センターで熊野牛うどんを食し、土産物屋の並ぶ参道階段から一の鳥居を潜って熊野那智大社に参拝。宝物殿も見学。御師(おし)が信者を案内する権利を売買した証文である「檀那売券」が面白い。天然記念物の樟(くす)のウロを通り抜ける「樟霊社胎内くぐり」に身体強健の護摩木を納めた。
熊野那智大社
青岸渡寺は那智大社に隣接。身近な秩父や奥多摩の山でしばしば出会う碑伝にも「熊野修験 那智山青岸渡寺」と記したものが多い。ここがその本拠か。
青岸渡寺
那智の滝は三重の塔との組合せや塔から望む姿もいいが、やはり飛瀧(ひろう)神社から間近に仰ぎ見るのが迫力だった。
那智の滝
那智の滝
那智駅に戻り、熊野三所大神社(くまのさんしょおおみわやしろ)補陀落山寺。補陀落はサンスクリット語ポータラカの音訳で、以下、宮家準『霊山と日本人』(p.50)から引用。

普陀山は浙江(せっこう)省の舟山列島の南北八・六キロ、東西三・五キロ、面積一二・七平方キロの島の山で最高峰の仏頂山の標高は二九一・三一メートルである。この島は樹木が茂り、果物が実り、清浄な泉・流水に恵まれていて、『華厳経』の「入法界品(にゅうほっかいぼん)」に説く観音の浄土の補陀洛に比定されている。これは唐の宣宗の大中元年(八四七)にインドの僧が海岸の潮音洞(ちょうおんどう)で波しぶきの中に示現した観音を祀って、観音の霊場にしたことによっている。大中一二年(八五八)には入唐僧の恵蕚(えがく)が五台山で観音像を得て、帰国の途中にこの島に立寄って観音を祀って普済寺(ふさいじ)を開基している。島には仏頂山上に慧済禅寺(えさいぜんじ)(仏頂山寺ともいう)、明の万暦八年(一五八〇)に創建された法雨禅寺がある。なお、日本では鎌倉時代初期以降、この舟山列島の観音の浄土、補陀落での往生を目指して、熊野の那智の補陀落の浜などから船出する渡海入定が行なわれた。
(引用は以上)
・・・という由緒ある、また世界遺産の構成要素ともなっている補陀落山寺なのだが、人気(ひとけ)も無く森閑としていた。
補陀落山寺
裏手の山には渡海上人と平維盛(たいらのこれもり)の供養塔がある。「浪の下にも都の候ぞ」と幼い安徳天皇を抱いて入水した二位の尼・平時子も並んでいた。
渡海上人供養塔

補陀落渡海の行われた浜を歩いてから新宮に戻り、サンシャインホテルに投宿。夕食はホテル向かいの居酒屋・熊五郎(https://goo.gl/maps/Hsi4iCDhfLAog9hp7)で。せっかくなので地酒「熊野三山」を飲み、郷土料理のめはり寿司で締めた。
めはり寿司

■5/22(日)
下山後に大斎原(おおゆのはら)には行かなかったので、朝一の熊野本宮大社行きのバスに乗った。今日は天気も良い。8時過ぎで参拝客も少ないうちにあらためて熊野本宮大社に参拝。本殿を端から順に拝んだ後で参拝順序の説明を見つけた。
熊野本宮 参拝順序
さらに本殿を辞して階段を下りて行くと「左手祓戸大神をお参りされてからご本殿にお進みください」。階段は右側通行なのだから、本殿に上がる時にこれには気づかない。参拝順が滅茶苦茶になってしまったけれど、御勘弁ください。
熊野本宮 祓戸大神

大斎原は本宮大社前の通りを渡って小道に入り、田んぼの中を行く。大鳥居は幅42m、高さ34mだそうで、近付いていくと遠近感が狂う。
大斎原 大鳥居
旧社地は草原になっており、明治22年(1889)夏の水害で流出した中四社・下四社を合祀した祠二基は涼しげな木陰になっていた。
大斎原 旧社地
熊野川の土手に上がって上流側を見やると、やはり鳥居の存在感が強烈。
大斎原 大鳥居

バスに乗って新宮に戻り、熊野速玉大社へ。本宮大社と違って朱も鮮やかな社殿。
熊野速玉大社
土産物屋などが並ぶ川原家横丁ではボランティアの熊野比丘尼が熊野曼陀羅の絵解き(https://www.shinguu.jp/future-mandaraetoki)をしてくれ、ご神木の梛(なぎ、https://kumanohayatama.jp/?page_id=16)の葉をお守りにと渡してくれた。葉脈が縦にのみ走っているので切れない、お金の縁も切れないので財布に入れてもいいとか。

次は、絵解きにも登場した神倉神社。熊野大神が最初に降臨された地で、速玉大社はこの神倉神社に対して「新宮」なのだという。
バスの窓からずいぶん高いところに見えただけあって、鳥居を潜ると急な石段。手を突いて登っている人もいる。「お燈祭」ではここを駆け降りるとか、死人が出やしないか。
汗をかいて登りついた神社は注連縄の掛かった巨大なゴトビキ岩の下に蹲(うずくま)るようにあり、原始の巨石信仰をそのままに伝えている。
神倉神社
ここからは街を越えて熊野灘まで一望で、なるほど海を渡ってきた神が初めに寄り付く地に相応しい。
神倉神社より熊野灘を望む

熊野三山すべてに参拝できたのであとは適当に観光しようと、浮島の森に行ってみる。沼に浮かんだ泥炭の島が寒暖両性の植物の混成群落になっている。
新宮城跡は石垣が立派。
速玉大社と同様に朱の社殿の阿須賀(あすか)神社は、熊野権現が神倉山に降りたのち「阿須賀之北」に勧請されたと伝えられている。傍らに「徐福之宮」の祠もあり、こんもりとした裏山が蓬莱山(飛鳥山)だ。神社に隣接する市立歴史民俗資料館には社殿裏から出土した平安後期~室町時代の熊野信仰に関わる御正体(懸仏)が多数展示されている一方、境内一帯は弥生~古墳時代の遺跡で祭祀跡も出土している。歴史以前から神の山であったところに熊野権現も徐福もやってきたのだろう。資料館に訊いてみたところ蓬莱山に登る道はないとのこと。今でも禁足地ということか。下の写真は神社の西側から見た蓬莱山。
蓬莱山

徐福繋がりで徐福上陸の碑(https://goo.gl/maps/kyDKZUSSvUxJvGCT6)は平成9年(1997)と最近のもの。
その先の宮井戸遺跡(https://goo.gl/maps/FnRpwvZNrF4daFbw6)は阿須賀神社社有地で、千引岩に刻まれた梵字は神社の本地仏である大威徳明王、不動明王を表すという。いかにも南国的な樹はサゴパームのようだ。
サゴパーム

今回見るべきものは見たので、締め括りに徐福公園に立ち寄って新宮駅へ。suicaで入場したところが列車はワンマンで現金払いのみ。名古屋からの新幹線には十分すぎる時間があるので、最後の行き当たりばったりで熊野市駅で降りて精算した。
次の列車までに見物できるところはないかと検索してみると獅子巌が引っ掛かった。同じく見物しているライダーもいて、なるほどツーリングスポットだ。
獅子巌
あとから考えると、熊野市に立ち寄るならもう少し計画的に行動して、花の窟神社まで行ってみればよかった。しかし今回の吉野から始まる旅としては、初めて和歌山、三重県に足を踏み入れお腹いっぱい、満足。
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